第8回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・優秀賞受賞作品


   『 小さな道が開きかけて』
        


                                           小神子眞澄 

 私は中学校の3年生だ。来年は高校に行かねばならない。だが、私は勉強が嫌いだ。スポーツも家庭科も図画もすべて嫌い。学校に何をしに行っているのか、分からない時がある。ただ黙って、自分の席に座っているだけだ。誰も話しかけてこない。私を避けて通る。私は一人ボッチだった。

 これは私の長女の話。長女の身になって、書いて行こうと思っている。

 今日は参観日だ。母親が来るだろう。私は勉強はしないから、見に来ても仕方がないのだけど。しばらくすると、母親がきた。私の方を見て、嬉しそうににこっと笑った。私は笑わない。

「ふん、わたしをさらし者にするのか……」

 私は母親を見返した。何の感情もわかなかった。だが、母親はとても嬉しそうだ。私が、ちらっと後ろを振り返ると、待っていたように、小さく手を振る。「来たわよ」と言っている。うざいな。後は知らん顔をして、私は、さも聞いているような姿で、自分の席に座っていた。先生は何を説明しているのか、ちっとも分からなかったが……。

 私には妹がいる。この妹は、素晴らしく出来が良い。小学校の1年生から、クラスの学級委員長を務めている。何をさせても、皆より、成績が良いのである。おまけに、どの担任でも受けが良い。担任から好かれるのである。家に帰る時は、担任の自転車に乗って帰ってくる。担任も嬉しそうだ。だから家では、この妹と私は差別される。余りにも出来が良い妹と、あまりにも出来が悪い私とでは、もう太刀打ちできない。

 だが、私は、この妹が大好きだった。出来が良いだけではなく、優しいのである。ちょっと私が咳をすると、「大丈夫?」と心配してくれる。肩をさすってくれる。その他何でも、私を優先してくれる。私は何も不満はないのである。学校の成績を除ければ……。

 だが、私が通うクラスの不満は増加していた。私という、お荷物のことで……。私さえいなければ、クラスの平穏は保たれるのである。私が自分の席に座っているだけで、皆はわざと遠回りして、私を除けて通って行く。私を見ないようにしている。私は透明人間だ。

 私は、この頃、誰とも口を利かず、只黙然と椅子に座っているだけである。朝から、学校を終えるまで、口を開くことがない。声を一言も発しないで、学校を終えるのである。

 私は死ぬことを考えた。私一人ぐらい死んでも、どうと言うことはない、と思った。同じ椅子に座って、1日を終えるのが苦痛になってきた。誰ともしゃべらない日が、苦しくなってきた。家に帰っても、私の居所はなかった。母は、私の本当の母だ。だが、父は違う。父は母が2度目に一緒になった人だ。私は、先夫の子供だ。だから、義父を嫌いだった。私の本当の父ではない。よその人だから。

 私は家に帰っても、学校でも、居場所はないのだった。死ぬしかない。この頃では、家に帰っても妹と話すことはなかった。妹が私に話しかければ、仕方なく私は応える。ただそれだけだ。

 学校で、誰ともしゃべらず、黙然として家に帰る。家でも、母ともしゃべらなくなった。父は嫌いだし、妹はこの頃友達がたくさんできたらしく、友達の家に遊びに行く。

 私は、どこでも一人ぼっちだった。死ぬことは、あまり苦しくない。皆悲しむかな、と思ったぐらいだ。
 どうしたら死ねるか?いろいろ考えた。風呂場で、死ぬのが良いと思った。あの暖かい湯の中に、頭をすっぽり隠して死ぬ。簡単だと思った。その日、私は風呂に入った。湯の中に頭を隠した。

「ええい、苦しい!」

 私は、もう少しという段階で、頭を出した。息が苦しくてならなかったからだ。湯の中も苦しいのだな、と思った。うん、死ぬのは簡単ではない。苦しみに耐えて、死んでいかねばならないのだ。

 今度は、学校のベランダから飛び降りることを考え付いた。うん、これはいい。私は、いつにしようと思った。運動会が終わってからだ。私たちの学校でも運動会がある。私は800メートル競走に出る。運動場を4回まわるのだ。これは、本当は出たくなかったが、何も競技に出なかった人が、やることになったのだ。
 私は何も出ていない、だからやるのだ。また母が見に来た。嬉しそうに、私をじっと見ている。母は、私が何もできないのに、何かできるのでは、と思っている。800メートル競走が始まった。

 初めは、私は、皆と一緒に走っていた。だが2回りすると、差がどんどん出てきた。早い人と遅い人の差が出てきた。私は、中間だった。だが、息は苦しくない。本当はもっと早く走れる。私は遅くなるのに、イライラし始めた。もっと早く走ろう。どんどん前の人を追い越して、前に出た。まだ走れる。私は、小太りだ。だが、息は楽だった。後ろの人が気になって、後ろを振り返り、「早くおいでよ」と心の中で言いながら走った。私は、どんどん前に出た。

 もう後ろを気にしなかった。私の走り方で、走ろうと思った。風を切って走るのは、何と気持ちが良いのだろう。私は夢中に走った。前に、ゴールがかかっている。あ、もう終わりなんだ。前の人がゴールを切った。次々に走って行く。私も走り終えた。私は何と3位だった。こんなに早く走れるなんて……。いや、走り過ぎたかな。もっと遅く走るのだった。速すぎた、と思った。
 顔があげられなかった。周りのみんなは拍手してくれた。私は、自分で自分が早いのに驚いた。遅く走ろう、と思っていたのに……。ちらっと見ると、母が手が千切れるくらいに拍手していた。目がキラッと光って見えた。その時も何の感慨も湧かなかった。

 だが、クラスの私を見る目が、少し変わってきたようだ。以前のように、私を除けて、通るのではなく、すぐ横を通るようになった。皆、私のことを、変な風に注視するようなことはなくなった。これも800メートルが早かったからだろう。少しは認めてくれたのかな、と思った。

 そんなある日、クラス会で羽村さんが発言した。羽村さんというのは、このクラスの学級委員長をしている、頭が良く、スポーツも上手で、何でも出来る人と言う評判だ。顔も可愛いと言ったら失礼だけど、整った正直そうな顔である。

「クラスの中で、孤立している人がいないように、皆で心を配って、日々生きていきたい」

 そういうことを言った。私は無関心に聴いていた。羽村さんとも今まで話したことはなかった。他人事みたいだったのだ。だが、それをきっかけに、羽村さんは、私に話しかけてきた。

「ね、音楽教室に行きましょう」

 という何でもない言葉だった。実はそれまで、私は、音楽教室も家庭科教室も雨の日の体育館でやる体育も、すべて一人で教室に行っていたのだ。だって、友達もいない私は、連れ立って行く人はいなかった。初めて、その言葉を聞いたときは、頭がこんがらがった。「ね、音楽教室に行きましょう」という言葉。誰でもない、私に向けられた言葉だった。

 私は、ものすごく嬉しかった。私を誘ってくれる友達がいるのだ。と思ったら、何だか勇気がわいてきた。私は、さも普通のように、「ええ」とだけ短く答えた。音楽の本を掴んだ。立ち上がると、女の子が3人さっと近寄ってきた。羽村さんは、いつもこの3人と行動しているのだ。3人とも頭が良かった。私は3人に挟まれるようにして、音楽教室に入った。座るところも、3人と一緒だ。私の横は、羽村さん。羽村さんは、私を見るとにこっと笑った。私も嬉しくなり、にこっと笑う。あとの2人も、一緒ににこっと笑った。私たちは、4人で仲良く並んでいる。

 これは夢ではないかと思った。今まで私は、何をするにも一人が普通だったのに……。今では、横に羽村さんがいる。いつもの歌を歌った。私には、いつもより上手に歌えたように思えた。羽村さんが、勇気づけるように、私の肩を軽くたたいた。リズムを取るように、軽くトントンとたたいて行く。

 私は、今まで上手でなかった歌が、今日は上手に歌えたと思った。音楽が楽しくなった。それからは、家庭科の時も、体育館でする体育の時も、すべて、羽村さんが私を誘ってくれるようになった。私は一人ぼっちではないのだ。今では、こうして横に3人がいる。

 私は少しずつ話して行けるようになった。私に話しかける人も少しいた。私は、独りぼっちではないのだ。友達がいる。羽村さんは優しい人だった。その友達も皆優しかった。
 今まで一人なのが、不思議だった。何処に行くにも、羽村さんが付いてきた。その友達も……。
 音楽のテストの時、羽村さんが私に言った。

「ここは、息を長くして、そして止めるのよ」

と。私はそうした。息を長くすると、本当に声が響くようだった。止める。席に戻ってくると、羽村さんが小さく拍手してくれた。

「良かったわよ」

 私は音楽の成績が4になっていた。成績は1〜5まである。4というのは、かなり良いと言うわけだ。また体育の時は、私を前面に押し出し、目立つように体育を受けさせた。私は体育は好きでも嫌いでもなかった。ただ何となくしていた。それが、皆の前だから、今以上にしっかりやらなくては、と思い、一生懸命にやった。これが良かったのか、私は体育も4をもらえたのだ。何だかすべてが楽しくなった。

 家庭科も、布を縫うのは嫌いだったけど、料理を作るのは好きだった。料理の時は、羽村さんともおしゃべりをして、私は生き返ったようだった。結果3をもらった。私は、それまで、ずっと全科目1か2だったのだ。

 慣れてくると、私は悩むようになった。羽村さんは頭が良い。こんな人と、頭の悪い私は仲良くなっていいのだろうか?私は羽村さんが好き。このままずっと中学校生活を続けていけたらな、と思うようになった。
 羽村さんはずっと私の横にいた。時々、とろい私に文句を言ってくる人がいた。そんな時、羽村さんは、立ち上がって、

「みんな一緒の生徒なのよ。あなたもね」

 と言い、ほほ笑んだ。私は、羽村さんに救われたことより、こう言って、助けた羽村さんに敬意を払うのだった。そうなんだ、みんな同じ生徒なんだ、と思ったら気が楽になった。学科もある。国語も算数も理科、社会、色々ある。それらはみな駄目だった。ちっとも成績は上がらない。羽村さんは、私に「いいのよ」と言った。無理に勉強を押し付けなかった。それでまた私は、楽になったのだ。

 羽村さんは、中学校を卒業するまで私と仲良くしてくれた。私は次第に明るくなった。時々笑うようになった。羽村さんが首筋をちょっとつつくからだ。私はたまらず笑うのだった。私はいつしか、クラスの中に自然に動いていた。たった1つ、800メートル競走が早かったために、皆の中で生きていけることができた。
 人間には、何か一つ取りえがある。私は、徒競走、それも長距離だった。これで何とか普通に生きていけることができた。あなたも、何か一つ見つけて、邁進すればどうだろう。きっと道が開けてくると思う。道を開けるのは難しいが、小さな道がどこかに開きかけて待っているのかもしれない。

 中学校生活は悪くはなかったな、と言うのが私の本心だ。